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２部　近代化と私たち
４章　産業革命による欧米とアジアの変化

p.43　１　産業革命で変わる社会

学習課題　産業革命によって発生した社会の変化は、世界の歴史に何をもたらしたのだろうか。

産業革命の背景
　工業化社会の出発点である産業革命は、18世紀のイギリスで始まった。17世紀に海外進出が本格化すると、イギリスは植民地獲得競争に勝利し、18世紀後半には海上交易の主導権を握るようになった。広大な海外市場の下で貿易は盛んになり、商工業者は資本を蓄えた。農村では18世紀に地主が小農民の土地や共有地を吸収して農地を広げ（囲い込み）、この土地を資本家が借りて農業労働者を雇い生産を行うようになった。また、新しい農法の採用や農機具の改良により農業生産が増大し、人口増を支えることが可能となった（農業革命）。一方、土地を失って都市に流入した農民は、工場労働に必要な労働力となった。

産業革命の開始
　インドから輸入され、需要の高まっていた綿織物を国内で生産しようとしたところから産業革命は始まるが、この需要に従来の手作業では応じきれなかった。そこで飛び杼や紡績機などの機械が発明され、綿織物が工場で機械によって大量生産された。ワットが改良した蒸気機関は、それまで用いられていた動物や水力・風力などに替わる力を人類に与え、さまざまな機械の動力となった（動力革命）。蒸気機関は蒸気機関車・蒸気船に応用されて交通革命を引き起こし、長距離・大量・高速の輸送を実現した。産業革命は、農業中心の社会を機械による工業中心の社会に変え、現在も続く機械文明の出発点となった。産業革命の波は欧米諸国に広がり、19世紀末以降、日本でも産業革命が進展した。

資本主義社会の成立と出発
　産業革命により、生産手段や資金を資本として所有し、企業を経営する資本家と、資本家に雇われ、その賃金で生活を営む労働者が誕生した。資本家は、労働者が生産する製品を販売して利潤を手に入れた。このしくみを基本とする資本主義社会が産業革命によって確立され、欧米諸国に広がった。また、イギリスでは1832年の選挙法改正によって産業資本家が議会に代表を送るようになった。産業革命を経た各国では、資本家が経済活動の自由を求める自由主義を旗印に革命運動と資本主義社会への転換を主導する勢力となっていった。

労働運動と社会主義運動の発生
　資本主義が展開するにつれ、児童労働、低賃金、長時間労働などの問題が生じた。労働者たちは労働組合を結成して生活と権利を守る運動を始めた。その結果イギリスでは、1833年に本格的な工場法が制定され、それ以降の改正も含めて9歳未満の労働の禁止、年少者や女性の労働時間の短縮、成人男性の10時間労働などが規定された。また、男子普通選挙権を求めてイギリスの労働者が起こしたチャーティスト運動など、政治的活動も展開された。
　一方、資本主義の下では労働者の貧困がなくならないと考え、社会的不平等の克服のために生産活動の合理的で共同的な管理を提案する社会主義思想が生まれた。社会主義運動に最も大きな影響を与えたのが、マルクスとエンゲルスである。二人は『共産党宣言』で、資本家が生産手段を私有し生産活動を支配していることが労働者の低賃金や景気変動による生活苦の原因だとして、それらを取り除くため、労働者が政権を握って私有財産制度の廃止と生産手段の共有化を実現すべきだと説いた。この思想は各国に広まり、後のロシア革命を導く理論となった。

①マンチェスターは、産業革命が始まると綿織物工業の一大中心地になった。

未来へ活かす歴史　産業革命による生活の変化と環境の悪化
　産業革命による急激な都市人口の増加によって、低賃金労働者は、劣悪な住宅環境を余儀なくされた。彼らの住居は狭く日当たりも風通しも悪い路地裏に密集し、上水道も下水道も整備されていなかったため、伝染病の温床ともなった。イギリスでは、コレラが大流行した1840年代にようやく公衆衛生に対する関心が高まり、清潔な環境形成が重要な課題となっていった。一方、資本主義社会では、社会全体が同一の時間で動くことも求められた。時計が普及し、労働者の定時出勤や遅刻の概念も生まれた。

１　伝統的な糸つむぎ（亜麻糸）
２　紡績機による糸つむぎ（綿糸）　ジェニー紡績機の発明から水力紡績機を経て、1830年代には蒸気機関で動く紡績機が登場し、一人で1200錘（1200本）の糸つむぎを受けもてるようになった。
読み解き　図１と２を比べると、労働の場はどのように変化しているだろうか。
３　産業革命期の主な発明
４　各国の産業革命の開始時期
５　イギリスの都市人口と石炭産出量の推移　読み解き　イギリスの都市人口と石炭産出量は、100年間でどのように変化しただろうか。
６　労働者が生活するロンドンの路地裏
７　マルクス　『資本論』を著したほか、生産活動のあり方を基礎にして人類史の流れを把握しようとする歴史観（唯物史観）を示し、後世に影響を与えた。

確認　イギリスで産業革命が発生した要因を、本文から二つ以上書き出そう。
説明　産業革命によるさまざまな変化のなかで、一番重要だと考えるものとその理由を説明しよう。


p.45　２　イギリスの繁栄と国際分業体制

学習課題　世界市場の形成によって、各地域の経済はどのように変化したのだろうか。

世界市場の形成
　産業革命を経て世界最大の工業国となったイギリスは、「世界の工場」とよばれ、市場を求めて世界各地に進出し、最大の植民地をもつ帝国となった。続いて産業革命を迎えた西欧諸国も、アジアやアフリカ、東欧などを自国の商品の市場や原料・食料の供給地に変え、国際分業体制に組み入れた。世界が一つの市場（世界市場）となり、世界の一体化が西欧諸国を中心に一層進んだ。一方で、世界市場の成立により、景気の後退による経済の混乱（恐慌）も世界を襲うようになった。

ヴィクトリア時代の改革と植民地統治
　イギリスは、ヴィクトリア女王の時代に最盛期を迎えた。内政では、初等教育の普及を目的とした1870年の教育法により国民形成が促され、組合運動を合法化した71年の労働組合法、また男性の選挙権を労働者・農民までしだいに拡大した一連の選挙法改正など、数々の改革が行われて民主化が進んだ。そして責任内閣制の下、ディズレーリが保守党を、グラッドストンが自由党を率いて国政を担当し合い、二大政党による政党政治を特徴とする議会制民主主義が発展した。政党政治は、その後、日本など各国の政治に影響を与えた。
　外政では、77年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立し、当時のイギリス最大の植民地となった。一方カナダやオーストラリア、南アフリカなどの白人定住植民地には自治権が与えられた。67年に初めての自治領としてカナダ連邦が成立し、その後の自治領のモデルとなった。

国際分業体制の展開
　産業革命に伴う都市化と国際分業体制の展開は、世界の農業も変えた。フランスや西部ドイツ、アメリカなどは自営農による農業が中心で、激増した食料需要に技術革新で応じ、自国の産業革命を支えた。特にアメリカ西部では、機械による大規模農業が発展した。一方東ヨーロッパは、イギリス方面への穀物供給地となり、同時にイギリスで生産された工業製品の市場となった。ロシアなどでは封建的な農奴制に基づく農業が続いた。
　はるかに離れた生産地と消費地の結びつきを可能にしたのは、交通革命によってであった。砂糖入りのコーヒーや紅茶を欧米の人々が楽しめるようになった反面で、国際分業体制の展開は、熱帯・亜熱帯地域の農業に特に大きな影響を与えた。16世紀に砂糖やコーヒーの生産から始まったプランテーション農業が、19世紀以降の植民地化の進行につれて綿花や茶、天然ゴムなどの生産にも広がった。同時に、本国や欧米への輸出向けの特定の農産品に依存する、モノカルチャー経済化も進んだため、地域の伝統的農業が廃れ、それまで成り立っていた経済的自立が困難となった。この経済的自立は、今日なおこれらの地域の課題となっている。
　一方、プランテーションでは黒人奴隷が使役されていたが、人道主義の立場から廃止論が主張されるようになり、イギリスでは1833年、フランスでは48年に本国と植民地双方で奴隷制が廃止されるなど、欧米諸国を中心に廃止の動きが広がった。その後奴隷に代わって、主にイギリスの植民地やアメリカでは、インドや中国出身の移民が労働力として導入された。

①議会の承認を得ていることを内閣の成立条件とし、内閣は議会に対して責任を負うという制度。

未来へ活かす歴史　ヴィクトリア時代の女性たち
　この時代のイギリスでは、社会の流動化に伴い中流階級が台頭してくるようになった。労働者階級の女性は従来通り賃金労働に従事し家計を補い、一方で中流階級の女性は賃金労働に従事せず、妻や母として家庭を守り、余暇は趣味や慈善活動の時間にあてることが理想とされた。しかし、男性の晩婚化や、海外軍役に就いたり植民地に赴いたりする男性の増加などにより、独身で無職の女性が増えたことで、そのような理想の実現は難しくなり、男性との格差は拡大した。このような状況から、女性への高等専門教育や女性参政権などを要求する運動が活発になっていった。

未来へ活かす歴史　新聞の発行による情報伝達
　印刷技術の発達によって、イギリスでは1840年代に挿絵入りの週刊新聞が登場した。この新聞は、大型の挿絵をふんだんに用いることで人気を博し、60年代には週30万部以上を発行するようになった。1851年には、第１回万国博覧会の会場となったクリスタルパレス（→P.59）を建設の段階から詳細に報道し、人々の関心を高めた。新聞の発達は、人々の考え方の統合を進める面もあった。

１　ロンドンの金融街　19世紀後半、イギリスは圧倒的な経済力で世界各地に投資するようになり、ロンドンの金融街は世界経済の中心となった。
２　「世界の工場」イギリス　世界中からさまざまなものがイギリスに集められた。
読み解き　なぜイギリスは、世界各地のさまざまな商品を集めることができたのだろうか。
３　ディズレーリの風刺画　ディズレーリは、大衆向けの福祉政策を中心とした改革を推進した一方、インド帝国を成立させるなど（→P.51）、大英帝国の拡大を積極的に進めた。
４　グラッドストンの風刺画　グラッドストンは、初等教育法や選挙法改正など諸改革に取り組んだが、アイルランド自治問題は解決できなかった。
読み解き　風刺画はそれぞれの政策のどのような点を描いているのだろうか。
５　イギリスの輸出入品目の比率の変化
読み解き　産業革命の前後で、イギリスの輸出品と輸入品はどのように変化しているだろうか。
６　ヴィクトリア女王（1819〜1901）　「パクス＝ブリタニカ（イギリスの平和）」とよばれたイギリス最盛期に君臨し、在位期間は60年以上に及んだ。夫アルバートとの模範的な家庭生活は、中産階級の理想の家族像となった。
７　万国博覧会の会場建設を伝える記事

確認　国際分業体制によって、各地域の経済構造がどのように変化したのか、書き出そう。
説明　国際分業体制の形成は、今の社会にどのような問題を生じさせたと考えられるか、説明しよう。


p.47　３　アメリカの拡大と科学技術の発展

学習課題　アメリカ合衆国の統一と工業化は、世界の動きとどのように結びついていたのだろうか。

アメリカの拡大と移民
　アメリカは、1823年に南北アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を主張するモンロー宣言を発し、この外交方針は以後のアメリカの基本となった。その一方でアメリカは、西部へと領土拡大を続け、19世紀半ばに太平洋岸まで到達した。この領土拡大は神から与えられた「明白な天命」であるとされて開拓が進んだが、これは先住民の居住地を奪うことでもあった。アメリカの発展に伴って移民も増加し、移民は工場労働者や開拓農民となった。カリフォルニアで金が発見されてゴールドラッシュが起こると、太平洋岸への移住者も増えた。さらに、アメリカは太平洋を越えてアジアを目指し、ペリーを日本へ派遣した。

南北戦争と奴隷解放
　南部は黒人奴隷を労働力とする綿花プランテーションが中心で、綿花の輸出に有利な自由貿易を求めていた。一方、北部は商工業が盛んで、イギリス製品に対抗するため関税を高くする保護貿易を求め、奴隷制にも反対であった。新州が誕生するたび、自由州とするか奴隷州とするかで南北の対立は深まっていった。
　南部が基盤の民主党に対し、北部の商工業者や西部の自営農民を中心に、奴隷制の拡大反対などを目的として共和党が結成された。共和党のリンカンが大統領に選出されると、南部諸州は合衆国からの離脱を決意し、アメリカ連合国を結成した。リンカンはこれを認めず、南北戦争が始まった。北部は最初は劣勢だったが、高率保護関税と定住者に無償で土地を与えることを定めて商工業者と西部農民の支持を固め、盛り返した。1863年にリンカンが奴隷解放宣言を発すると南部は国際世論からも孤立し、降伏した。
　奴隷解放により黒人の多くは南部の農場で小作人となったが、生活は苦しく、投票権も再び奪われた。19世紀末には、公共施設を黒人用と白人用に分ける人種分離も行われるようになった。黒人のみならず先住民やアジア系移民などに対する差別の問題も未解決のままであった。

アメリカ・ドイツの産業革命
　南北戦争後のアメリカでは、北部を中心として産業革命が急速に進んだ。1869年の大陸横断鉄道開通によって国内の一体性が深まり、広大な国内市場を形成したアメリカは、やがてイギリスに匹敵する工業大国となった。そして98年の米西（アメリカ―スペイン）戦争を転機として、圧倒的な経済力を背景に積極的な対外進出を行っていった。一方、統一を果たしたドイツでも、国を挙げての重工業化が進み、さらなる市場と資源を求めて積極的に世界進出を目指した。

科学技術の発展と輸送・通信の発達
　ヨーロッパでは、19世紀に自然科学が飛躍的に発展した。産業発展のために新しい科学技術が必要とされ、国家が資金を投下し、研究所や大学の理工系学部などを新設して専門的な研究を促したことがその背景にあった。レントゲンのX線やキュリー夫妻のラジウム放射線の発見、ノーベルのダイナマイト発明などが相次いだ。遺伝学・細菌学・薬学・免疫学の研究が進み、医学も発達した。
　科学技術の発展は輸送と通信の発達ももたらした。より高速で大型の輸送船が開発され、世界各地が航路でつながり、世界的な交易ネットワークが形成された。また、海底通信ケーブルが敷設され、世界各地の情報がこれまでより早く入手でき、情報によっても世界がつながるようになった。

①19世紀前半にはアイルランドやドイツなどからの移民が多かったが（旧移民）、1880年代以降は、イタリアやポーランドなど、南欧・東欧諸国からの移民が増加した（新移民）。また、同時期にはロシアでの迫害から逃れてやってきたユダヤ系移民もいた。

世界の中の日本　南北戦争と日米貿易
　アメリカは日本の開国後、積極的に貿易を行っていたが、南北戦争による混乱で一時的に貿易は途絶えた。戦争の終結後、アメリカの武器商人が不要になった銃を幕府側・新政府側の双方に販売するなどし、貿易は再び盛んになった。これらの銃は、戊辰戦争期や明治時代初期に日本で広く使用された（→p.61）。

未来へ活かす歴史　故郷を追われる先住民
　独立戦争後、政府は、アメリカ領となった土地のうち五大湖南部の土地を独立戦争の参加兵士に分与すると決め、先住民の土地を没収した。抵抗して戦った部族は敗れ、ミシシッピ川以西へ移っていった。ジャクソン大統領時代に白人社会の民主化は進んだが（ジャクソニアン＝デモクラシー）、1830年の強制移住法により、東部にいた先住民はミシシッピ川以西に設けられた居留地への移住を強制された。しかし、先住民のうちチェロキー族は最後まで抵抗した。彼らは最終的に移住したものの、わずかな装備と食料しかもつことができず、移動中に約4分の1の犠牲者を出し、その道のりは「涙の旅路」とよばれた。コロンブスの到達時、少なくとも500万ほどいたとされる北米の先住民人口は、1890年代には約25万に激減した。

１　リンカンのゲティスバーグ演説
２　アメリカ合衆国の領土拡大　白人の開拓によって、未開拓地の境界（フロンティア）も西に移動していった。
読み解き　リンカンの演説において、「人民」に含まれた人は誰で、含まれなかったのは誰だろうか。
３　横浜港での貿易相手国の比率
４　チェロキー「涙の旅路」
５　ストウ（1811〜96）　人道主義の立場から黒人奴隷の惨状を描いた『アンクル＝トムの小屋』を1852年に著した。9か月で30万部が売れるベストセラーとなり、北部の奴隷制反対の世論を高めた。
６　海底通信ケーブルの敷設　イギリスと北アメリカをつなぐ大西洋横断海底ケーブルが1866年に実用化された。19世紀末までに、欧米諸国の首都とアフリカ・アジア・オセアニア・南アメリカを結ぶ電信網も確立した。

確認　アメリカの工業大国化を可能にした、国内の要因を書き出そう。
説明　合衆国の工業大国化の過程と、経済的発展の背景にある社会的な矛盾について、説明しよう。


p.49　４　「西洋の衝撃」と西アジアの変化

学習課題　ヨーロッパ諸国の進出によって、西アジアの社会はどのように変化したのだろうか。

解体に向かうオスマン帝国
　19世紀になると、近代化が進むヨーロッパ諸国は、自由貿易をうたい、強力な軍隊を整備して本格的にアジアに進出した。アジア諸国はこれに対抗するため、自国の軍隊や政治体制の改革を迫られるようになった。これを一般に「西洋の衝撃」とよぶ。
　18世紀のオスマン帝国は、国内では地方勢力の反乱が続き、またロシアとの戦争に敗北してクリミア半島や黒海の支配権を失い、劣勢が続いた。1798年には、ナポレオン率いるフランス軍がイギリスのインドへの道をはばむためエジプトに遠征し、3年間占領した。フランス軍撤退後のエジプトではオスマン軍人ムハンマド＝アリーが実権を握り、近代的な軍を組織してオスマン政府軍を圧倒し、エジプトに事実上の独立王朝を築いた。
　また帝国内のギリシア人の間でナショナリズムが高まり、独立戦争に発展した。ロシアやイギリスが介入した結果、1830年に独立が達成された。これは多民族が混在する帝国内において民族独立運動の先駆けとなった。

オスマン帝国の模索
　危機に直面したオスマン帝国は、1839年にタンジマートとよばれる近代化改革を開始した。この改革では、まず法治主義が強調され、その後帝国の住民は宗教にかかわらず法の下に平等とされて、一体化が目指された。また、政治や教育の改革が進み、近代的な軍隊が整えられた。76年には、議会制や言論の自由などを保障したアジア初の憲法（ミドハト憲法）が制定された。後の大日本帝国憲法と同様、スルタンに大きな権限が残ったが、議会や内閣の権限に不満を覚えたスルタンが憲法を停止して議会を閉じ、1908年まで中断された。
　オスマン帝国は、1838年のイギリスをはじめとして、ヨーロッパ諸国と通商条約を結んだが、実際は不平等条約であった。その結果、外国製品が流入し、伝統産業が衰退した。これにクリミア戦争による出費なども重なり、オスマン帝国は破産状態となって、ヨーロッパ諸国への従属が深まった。

エジプトとイランの模索
　オスマン帝国から自立したエジプトは早くから徴兵制や土地調査などで近代化を進め、商品作物の綿花生産を拡大していた。しかし、スエズ運河建設の途中で英仏から借金を始め、南北戦争の終結による綿花価格の下落も影響して、1876年に財政破綻した。借金が返済不能になると、エジプトは英仏に国家財政を押さえられ、実質的に支配された。イラン出身の思想家アフガーニーは、これをイスラーム世界全体の危機ととらえ、ムスリムが一体となって抵抗することを目指すパン＝イスラーム主義を説いた。一方、軍人オラービーは81年に「エジプト人のためのエジプト」を叫び英仏への反乱を起こしたが、イギリスはこれを鎮圧してエジプトの占領を開始し、後に保護国とした。
　イランでは、サファヴィー朝に替わったカージャール朝がロシアやイギリスの圧力にさらされた。ロシアとの戦争でカフカス地方を失ったイランは、ヨーロッパ諸国と結んだ不平等な通商条約により、ヨーロッパへの経済的な従属が深まった。90年、イランはイギリス商人にたばこの生産・流通の独占を認めたが、民衆による政府への全国的な抗議運動が起こり、イギリスの利権は撤廃された。こうして独立を保ったイランでは、憲法制定や議会開設が目指され、1905年のイラン立憲革命につながった。

①これ以後イギリスは、強大な軍事力を背景に、さらに自国に有利に改変した不平等条約をアジア諸国に強いることで、世界的な自由貿易（→巻末1）のしくみをつくり出していった。ただし、自由貿易とはいえ、アジア諸国には低関税を押しつけ、自国の関税は高く設定していた。

１　オスマン帝国の議会（1877年）　ミドハト憲法の下で、1877年から二院制の議会とこれに責任をもつ内閣制度が始まったが、スルタンの命令で議会は1年もたたずに閉会した。
読み解き　オスマン帝国で制定されたミドハト憲法は、誰を中心とした憲法なのだろうか。
２　ムハンマド＝アリー（1769〜1849）　フランスとの戦いで赴いたエジプトで総督となり、日本よりも半世紀早く富国強兵・殖産興業（→p.73）といった政策を行った。
３　近代化したオスマン帝国軍　軍隊の近代化は19世紀初頭から試みられ、1840年代ごろから、徴兵制の導入や軍備の増強が進んだ。
４　オスマン帝国の実効支配地域の縮小　18世紀ごろから、オスマン帝国では地方勢力が台頭し、政府の支配が全域に行き届かなくなっていた。
５　スエズ運河の開通式　1869年に開通した、地中海と紅海を結ぶ全長163kmのエジプトの運河で、ヨーロッパからのインド航路（→p.10）は、南アフリカの喜望峰回りに比べ、時間を約40％短縮できた。
６　アフガーニー（1838/39〜97）　ヨーロッパの侵略を受けて、個別の抵抗ではなく、全世界のムスリムによる、民族の違いを超えた一致団結の抵抗を説いた。この主張は雑誌などを通じて世界各地に影響を与えた。

確認　オスマン帝国が行った近代化政策についての説明を、本文から書き出そう。
説明　西アジア諸国の変化について、ヨーロッパ諸国の近代化と比較して共通点と相違点を、それぞれ説明しよう。


p.51　５　南・東南アジアの植民地化

学習課題　ヨーロッパ諸国の進出によって、南・東南アジアの社会はどのように変化したのだろうか。

イギリスのインド支配
　南アジアでは、多民族・多宗教の人口を抱えるムガル帝国が綿布の輸出などで繁栄していた。17世紀後半、人口の多数を占めるヒンドゥー教徒への寛容な政策を転換してイスラーム化を厳格に進めると、各地で反乱が起こり、地方に独立政権が次々と現れた。帝国の支配地は都のデリー周辺にまで縮小し、インドの統一は失われた。混乱のなか、1757年、イギリスの東インド会社が、対立するフランスを追い出し、ベンガル地方を統治した。東インド会社は各地の独立政権を破り、19世紀半ばまでにインドのほぼ全域を植民地化した。
　インドには、機械でつくられたイギリスの安価な綿布が輸入されるようになり、農村部を中心とした綿の手工業は衰退した。また、イギリス資本により鉄道が港湾都市から内陸に向けて敷設され、英語が公用語となった。
　1857年、東インド会社の傭兵（シパーヒー）が起こした反乱は、ムガル皇帝を立ててイギリス支配を倒そうとする闘争に拡大し、都市・農村のあらゆる人々を巻き込んで北インド全域に広がった（インド大反乱）。イギリスは、翌58年にかろうじてこれを鎮圧すると、ムガル皇帝を廃位し、イギリス政府による直接統治を始めた。さらに東インド会社が廃止され、77年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国が成立した。

国民会議派の形成と展開
　支配を受けるインド人たちは、1885年にインド国民会議（後の国民会議派）を結成した。当初はイギリスに協調しつつ自治の獲得を目指したが、規模が拡大するなか、しだいに反英傾向を強めていった。イギリスは1905年、民族運動が盛んになったベンガル地方を、ヒンドゥー教徒の多い地方とムスリムの多い地方に分割して勢力の分断を図った（ベンガル分割令）。これに反発した国民会議派は、独立を目指し、スワラージ（自治、独立）とスワデーシー（国産品愛用）を唱えて対英抗議運動を展開した。この時期、日露戦争での日本の勝利がアジア各地に伝わっており、運動にも影響を与えた。一方、ヒンドゥー教徒中心の国民会議派に反発した少数派のムスリムは06年に親英的な全インド＝ムスリム連盟を結成して、ベンガル分割を支持した。イギリスは11年に分割令を撤回したが、ヒンドゥー教徒とムスリムの対立は深まっていった。

東南アジアの植民地化
　東南アジアでは、ヨーロッパ諸国が港湾都市を足場に内陸を開発しながら、競って植民地化を進めた。ベトナムは清の冊封国であったが、19世紀後半にフランスが武力で植民地化を開始し、清との戦争（清仏戦争）の結果、全体を植民地とした。さらに、カンボジアとラオスを合わせて仏領インドシナ連邦が形成された。一方、フィリピンは米西戦争の結果、スペインからアメリカの植民地となった。インドネシアではオランダが、マレー半島ではイギリスが植民地を広げて、ビルマもインド帝国の一部として植民地化した。
　ヨーロッパ諸国は、主に世界市場に向けた商品を得るため、南・東南アジア各地のモノカルチャー経済化を進めた。また、支配のために欧米式の教育も進めたが、それにより民族意識に目覚める知識人も現れた。
　シャム王国（タイ）だけは、英仏植民地の緩衝地帯という地理的条件と、チュラロンコーン王による近代化政策により、独立を保った。

１　東インド会社のインド人傭兵（シパーヒー）の反乱（1857年）　イギリス支配のなか、新しい銃の弾薬包に牛と豚の油が塗られているという噂が広まった。それをかみ切って装填することを問題視したヒンドゥー教徒、ムスリム双方の兵が集まって蜂起し、インド大反乱へ発展した。
２　ラクシュミー＝バーイ（？～1858）　小王国の王と結婚したが、夫の病没で王国がイギリス領に併合された。インド大反乱が起こると義勇兵を率いてイギリス軍と勇敢に戦ったものの、戦死した。
読み解き　図１の傭兵の反乱が発展した理由について、図３なども踏まえて考えよう。
３　イギリスとインドの綿布の輸出入
４　イギリスのインド支配
５　東南アジアの植民地化
６　19世紀の東南アジアの主な輸出品　有用な鉱物が大規模に採掘され、多様な農産物が育つ土地でも、プランテーションで特定の農産物が集中的に生産されるようになった（→p.131）。
７　チュラロンコーン王（ラーマ5世）（1853〜1910）　若き日にインドや西ヨーロッパを視察し、そこで得た知見をもとに中央集権（→巻末１）国家の行政整備や学校教育の開始などの改革を進めた。

確認　20世紀初頭までにヨーロッパ諸国が南・東南アジアに形成した植民地を、本文や図４、５から書き出そう。
説明　植民地化によって南・東南アジアの社会はどのように変化し、現在の社会にどのような影響を与えたのか説明しよう。


p.53　６　ヨーロッパの日本接近とアヘン戦争

学習課題　清は、ヨーロッパ諸国の進出に対してどのように対応したのだろうか。

日本に接近する欧米諸国
　18世紀、ヨーロッパ諸国のアジア進出は、繁栄する清との貿易を目指して東アジアにまで及んだ。そして、清への経由地として、貿易統制を続ける日本とも接触を試み始めた。
　18世紀末から、ロシアは日本との自由貿易を求め、ラクスマンを蝦夷地に、レザノフを長崎に送った。幕府がこれを断ると、ロシア船は樺太・択捉島を攻撃し、蝦夷地は紛争状態となった。その後ロシアは、ナポレオン戦争の影響でアジアに力を注げず、北方からの危機はひとまず去った。
　こうしたなか、フランスやイギリスも日本や蝦夷地の沿岸を調査しようと、日本近海に船を送るようになった。また、ヨーロッパでナポレオンがオランダを征服すると、フランスに対抗するイギリスの軍艦が、オランダ船の捕獲と偵察のために長崎港に侵入する事件（フェートン号事件）を起こすなど、ヨーロッパ諸国の争いが日本に波及した。
　情勢を受けて武士の間で警戒の声が強まり、幕府も海岸防備の強化や蝦夷地の調査を行った。1825年には、オランダ以外の欧米船を追い払うことを目的とした異国船打払令（無二念打払令）が発令された。また、幕府は、この対外政策を批判する知識人を処罰した（蛮社の獄）。対外的な脅威が強まるなか、国内でも飢きんや財政の悪化から政治不安が高まっていた。

アヘン戦争
　広州での清とヨーロッパの貿易は、18世紀後半になると産業革命を経たイギリスが大半を占めるようになっていた。紅茶が普及したイギリスでは、清からの茶の輸入が増え、対価である銀の流出が問題となった。そこでイギリスは、綿製品をインドに輸出した後、インドでアヘンを買いつけて清に密輸し、清から茶や絹の対価以上に銀を回収する三角貿易を行った。アヘン流入と銀流出に危機を感じた清が、改めてアヘン貿易を厳禁しイギリス商人のアヘンを没収・廃棄すると、イギリスは自由貿易の実現を口実にアヘン戦争を起こし、清軍を各地で撃破した。この結果結ばれた南京条約では、広州以外の開港や香港割譲などが定められ、追加条約で領事裁判権など不平等事項も盛り込まれた。

太平天国とアロー戦争
　アヘン戦争の費用や賠償金の支払いで、清の人々に重税が課せられると、各地で反乱や暴動が発生した。そのなかで、キリスト教の影響を受けた洪秀全が挙兵し、太平天国を建てた。滅満興漢（清朝打倒・漢人王朝の復興）、土地の均分などを唱えた太平天国は、民衆の支持を得て拡大し、南京を占領して中国南部を勢力下に置いた。
　太平天国に苦戦する清に対して、イギリスはさらなる利権拡大を狙い、フランスと共にアロー戦争を起こした。危機に陥った清は、天津条約を結び英仏と講和した。しかし、批准使節が攻撃された英仏は戦闘を再開し、60年に清は降伏した。英仏はより有利な条件で北京条約を結ぶと、太平天国の鎮圧に協力した。また、漢人官僚の李鴻章などが郷里で組織した義勇軍（郷勇）も各地で太平天国軍に勝利し、64年に内乱は終結した。天津・北京条約では、11港の開港、キリスト教の布教、外国公使の北京駐在などが認められ、またアヘン貿易も公認された。対欧米外交の重要性を認識した清は、欧米との外交体制を整備し、制度や文物の導入も模索していった。

①一方で、貿易振興による商業発展の重要性を唱える者も現れた。

未来へ活かす歴史　幕末社会のほころび
　欧米諸国の軍艦が日本近海に現れた18世紀末、日本国内でもさまざまな問題が起きていた。幕府は度重なる飢きんで起きる民衆の一揆や打ちこわしの対応に苦しみ、また改革に成功した諸藩が、幕府と経済面で競合したことで、両者の間に亀裂が生じた。朝廷では、権威の復活を目指す天皇も登場した。こうした幕末の動きは、江戸幕府滅亡、そして近代国家への転換の大きな要因となった。

世界の中の日本　高杉晋作が見た上海
　1862年、幕府の使節に随行した長州藩の高杉晋作は、欧米に開港させられた上海について「英仏人が道を通ると、清国人は道を譲る。上海は中国の土地なのに英仏の土地のようだ」と記している。高杉はこの渡航で、日本の将来に強い危機感を抱き、長州藩で尊王攘夷や倒幕を主導していった（→p.61）。

史料　南京条約（1842年）
第二条　広州・福州・厦門・寧波・上海を開港し、この5港にイギリスの領事を駐在させること。
第三条　香港島をイギリスへ割譲すること。
第四条　没収したアヘンの賠償金として2100万銀ドルを支払うこと。
第五条　公行（特権商人の組合）を廃止すること。　〈要約〉
読み解き　アヘン貿易の利益を守ること以外に、イギリスにとって南京条約は、どのような目的があっただろうか。

１　アヘン戦争
２　イギリスと清の貿易の変化
読み解き　イギリスと清は、なぜ戦争を始めたのだろうか。
３　1866年の打ちこわしの様子
４　アヘン煙を吸引する清の人々　麻薬の一種であるアヘンは、古来、鎮痛作用や下痢止めとして利用されていたが、18世紀後半には快楽目的で煙の吸引が広がった。アヘン煙の吸引は中毒性があり、身体・精神をむしばんだ。
５　高杉晋作（1839〜67）　上海から帰国後、攘夷を主張するだけでは日本は守れないと考え、武士以外の人々も参加する奇兵隊をつくった。
６　アヘン戦争から太平天国にかけての清
７　李鴻章（1823～1901）　太平天国の鎮圧後に、清の高官に起用され、清末の洋務運動（→p.75）を主導した。日清戦争・義和団戦争などの対外政策でも活躍した。

確認　イギリスがインド産のアヘンを清に密輸した背景を、本文から書き出そう。
説明　アヘン戦争やアロー戦争により、清とヨーロッパ諸国との貿易や外交関係は、どのように変化したのか、説明しよう。


p.55　７　黒船の来航と日本の対応

学習課題　日本は、欧米諸国の進出に対してどのように対応したのだろうか。

海外情報への対応
　欧米が日本に近づくなか、幕府は、オランダ風説書など外国からの情報や、西洋の地理書の翻訳、帰国した漂流民からの情報を通じて、ヨーロッパ諸国の世界進出への認識を深めた。アヘン戦争の結果が清の商人などから伝わるなか、幕府は1842年に薪水給与令を出して欧米諸国との紛争を避ける一方、海防の強化を進めた。
　また、海外情報は蘭学者のネットワークから日本各地に広まり、海外に高い関心をもつ大名も現れた。佐賀藩や薩摩藩では欧米の思想や技術を積極的に吸収して備えようという動きが強まり、水戸藩では尊王思想と外国を退けようとする攘夷が結びついた尊王攘夷思想が生まれた。これらの藩では、意見を幕政に反映させようとする動きも活発になった。

日本の開国
　ヨーロッパで1848年からの動乱やクリミア戦争が起こるなか、アメリカがヨーロッパ各国の隙を突いて日本を目指した。国土を太平洋岸まで広げたアメリカは、南京条約で開港した清との貿易における中継地点と、日本近海における捕鯨のための補給地点を確保するため、日本を開国させようとペリーを派遣した。
　1853年、ペリーは浦賀沖に到着した。アメリカ船の来航を事前にオランダから通告されていた幕府は、軍事的な対抗は難しいと判断し、開国を勧告するアメリカ大統領の国書を受けとった。その後、回答を聞きに来るというペリーに備え、幕府は諸大名や下級の幕臣に意見を求め、朝廷にも報告した。それまで幕府が政治に関する意見をこれほど広く求めたことはなかったため、これ以降、朝廷や有力大名は発言力を強め、日本中の人々が身分を超えて政治に高い関心をもつようになっていった。
　翌54年、幕府は日米和親条約を結び、外国船の補給と漂流民の保護を認めた。以後、露・英などとも同様に条約を結んだ。アメリカから自由貿易への要請が強くなるなか、アロー戦争の戦況が伝えられると、幕府は開国して貿易を行うことを決断した。こうして58年に、日米修好通商条約が結ばれ、ヨーロッパ諸国とも同様の条約が結ばれた。諸条約には、関税自主権が無く領事裁判権を認めるなど、日本に不利な不平等要項が含まれており、その解消は明治時代の外交交渉における大きな課題となった。

開国の影響と近代化改革
　日本は、欧米との条約で、世界市場へ参入させられた。そして、貿易が活発になると国内経済は混乱した。世界的に不足した生糸や蚕卵紙が大量に輸出され、国内の絹織物業は原料不足となり打撃を受けた。海外で人気の茶も盛んに輸出された。一方、良質で安価な綿織物や綿糸が輸入され、国内の綿関係産業も混乱した。変化に適応した新しい商人が台頭する一方、庶民は苦しい生活に追い込まれた。
　人々は欧米諸国に従属することをおそれ、さまざまな政治勢力となって日本の独立を維持しようと活動した。幕府をはじめ諸藩でも、欧米に対抗するために軍事力強化と人材登用を中心とする近代化改革が進められた。幕府は欧米の学問を学ぶ蕃書調所を設置し、またオランダ人の指導で海軍伝習も行った。これらには諸藩の家臣も参加できた。さらに幕府や薩摩藩、長州藩は海外へ使節や留学生を派遣した。こうして欧米の文明に触れた人物の多くは、明治以降、近代化改革の指導者として活躍した。

①薩摩藩、佐賀藩、長州藩を中心に、財政再建とヨーロッパ技術の導入などの改革が進んだ。また薩摩藩や長州藩では、実力のある下級武士が登用された。改革の成功により、藩の軍事力は強化され、やがて政局をも動かしていった（→p.61）。
②日米修好通商条約は、開港・開市地での貿易を認めた一方、外国人の移動を厳しく制限した。これは、国内経済の保護につながった。
③困窮する民衆に対し、改革を理由に幕府は次々と重税を課したため、幕府への支持は急速に低下した。また、知識人や豪農のなかには、みずから集めた情報や国学などの学問を通じて政治体制を批判する者も現れた。

史料　オランダから幕府にもたらされた情報
1843年の情報
　これまで清は（イギリス軍に）何度も打ち負け、清軍の高官は皇帝にイギリス軍にはかなわないと報告しましたが、皇帝は取り合わず…イギリス軍艦はおびただしく、皇帝も事態の沈静化のためには和談を行うしかないと考えを変えました。
1852年の情報
　アメリカ合衆国の政府は、交易を結ぶため日本に船を送るようです。…指揮官「ペルリ」という者が総督となったようです。…情報によれば、陸軍および攻城の武器をも積み込んでいるようです。
〈『別段風説書』より現代語訳〉

歴史の選択肢　受け入れか拒絶か　海外対応をめぐる論争
　アメリカの開国要求について、幕府が意見を求めると、諸藩や下級の幕臣からは大きく４種類の意見が提出された。朝廷や天皇は、アメリカとの自由貿易の開始には基本的に反対していたが、日米和親条約の締結についてはしかたがないと許容した。ただし、明確な意見があったのは一部で、多くの藩は回答せずに様子をみていた。
考えよう　❶四つの論はどのような理由で唱えられたのか、これまでの学習をもとに考えよう。❷意見の傾向は1853年と57年で変わっているが、その理由を考えよう。
アメリカの要求を受け入れる論
開国論：積極的に外国と交流し、貿易を行うべきだ。
許容論：アメリカの開国要求を認めざるをえないだろう。
アメリカの要求を拒絶する論
非戦論：開国は拒絶するが、戦争も避けるべきだ。
攘夷論：戦争となってでも外国は追い出すべきだ。

史料　幕府使節のアメリカ視察海軍造船所の見学（1860年）
　蒸気仕掛けでさまざまな細工をする様子は、目を驚かせるようなすばらしい工程で、筆舌に尽くしがたい。…大砲の弾丸が見る間に百個もできる。…この機関を我が国でも用いることができれば、国益は計り知れないと思われる。
〈村垣範正著『航海日記』より現代語訳〉

１　日本で想像で描かれたアメリカ船（1854年）〈神奈川県立歴史博物館蔵〉
読み解き　アメリカ船の来航前、幕府は欧米の動きについて、どのような情報を得ていたのだろうか。
２　ペリーの航路と日米修好通商条約の開港・開市地　開市地では貿易が認められたが、外国船による出入りは禁じられた。
３　諸大名からの意見聴取の結果
４　幕末の物価の変遷　読み解き　この時期の物価の高騰について、どのような原因が考えられるだろうか。

確認　アメリカが日本に開国を求めた理由を、本文から書き出そう。
説明　ヨーロッパへの対応について、日本とp.53〜54の清で、異なっている点とその理由を説明しよう。

４章の振り返り　産業革命を経験した欧米諸国の進出は、アジア諸国にどのような成果と課題を生み出したか、あなたの考えを説明しよう。
